内容  おとといの夕方と同じように、夜中にソファーに座り、人知れずギターを弾いてみた。 ストレスが溜まった日は、ギターを弾く事にしているのだ。エレアコギターはイヤホンさ えあてれば、夜でも近所迷惑にならず弾く事が出来る。自分の気持がどこかへ行ってしま いそうな、そんな不安定な時も然り。 「うまく弾けないな・・・」  どうもいつものような調子が出ない。ギターをガラステーブルに置いて、ソファーの上 に寝そべると、真っ白で唐草模様のある天井にルームライトがあたり、少々ゴージャスな 雰囲気をだしていた。本当はそれほど裕福な生活条件でもないのだが、僕はこれで満足だ った。  ここが僕の住んでいる地上の楽園だった。  僕はふと、黒淵のガラステーブルの上にあるギターを眺めた。今日はたまたま息抜きに 弾いてやろうとしたが、それが思ったような音が出なかったのだ。  小さな冷蔵庫の冷却機の音しか聞こえない僕の部屋は何故か一人で居ても寂しくは無か った。むしろその静寂が、僕に深い安らぎを与えてくれているようだった。  僕はしばらくそのままの体勢で寝そべっていた。もう少しで眠りそうだった。 「ねぇ、」  声が聞こえる・・・女性の声だ。おかしいな、部屋には誰も居ないはずだし、僕には彼 女だって居ないのに。勝手に入ってきたのかな・・・泥棒?空き巣? 「ねえってば。」  また聞こえてきた。聞いた事の無い声だ。けれど、もう僕は眠い。夜も遅いのだ泥棒が 入ってきてもテロリストが入ってきても、ましてやヘビメタのギタリストが入ってきたと しても、僕は寝ると言ったら寝ると決めたのだ。静かにして貰いたい。 「ちょっと!起きなさいよ!」  言い方が荒立ったので、その声がする方へ顔を向けようとしたら急にクッションで叩か れた。僕の買ったふわふわで白と黒の薄っぺらいクッションだ。痛くは無いが、頭にきた。 テメエは寝ている人をそうやって叩き起すんですかー、と思った。そしてその瞬間一気に キレた。 「ってぇな!誰だ出てけ!」  僕がそちらを向くと、女の子が僕の声に少し驚いてそこに固まっていた。初めて見たそ の女の子はとても綺麗な風貌をしていた。ピンクのブラウスに白いデニム、それにピンク の薄いレース。 一目でハートを奪われてしまいそうだった。でも、ここは気を取り直してまず相手を冷静 に知るべきだとおもった。 「一体キミは誰なんだ!」 「ご、ごめんなさい。こんなに怒るとは思ってなかったのよ。」 彼女は僕の様子にあわてて答える。  しかもこの子は、僕のギターのあったテーブルの上に座っていた。置いた僕の大切なギ ターは何処かへ行ってしまった。それを見てあきれ、ため息をついた。 「そこ、座るところじゃないし。座るんならちゃんとした所に座ってよ。」  彼女がテーブルから降りるとさっき叩いたクッションの上に腰掛けた。 僕は自分のギターが無い事を口に出して見る事にした。恐らく彼女の仕業だろうから。 「あれ、僕のギターが・・・ない」 「え?私がどうかしたの?」 「いや違うし、僕のギターだから。どこやったの?」 「だから私がどうかしたの?ここにいるわよ。」 「キミが?じゃあ僕のギターを取ってったのはキミか。」 「私は私にはとられないわ。」  このコはさっきから何を言っているんだ。僕のギターをいきなり現れた彼女が持ってい ってしまったんじゃないか。そう思っていた。っていうかそう考えてたし。けど、次の瞬 間僕は奇妙な考えにとらわれた。 (彼女は僕のギター・・・?)  少し固まる。んなわけないじゃん。そう思っている僕を彼女が首をかしげて見ている。 ええい、何時までも拉致が開きゃしない! こうなったら直接聞いてしまえ。恥かいても、もう知らないし。 「えっと、変な事聞くけどサ・・・」 「ん?なあに?」 「僕のギターは・・・キミ・・・ですか?」  僕の質問した事は、まったくワケがわからなくなってしまった。相手が楽器の場合の言 葉なんて、考えたことも無いからだ。 「うん。」  彼女は何も迷わず、微笑しながらそう答えた。 「・・・でも、よくわかったネ。」  その瞬間、僕は全部自分なりに理解した。な〜んだこれは全部夢なんだと。ギターが人 間になっている時点で気づこうよ自分。夢オチかよ! もう僕は自分の知らない間に寝ちゃったんだね。自分の状況理解よゆーでしたっ。 「そっか、そうだったね♪」  僕はニッコリと彼女に笑いかけた。もう何にも驚く必要は無い。彼女は僕のギターで、 泥棒でも空き巣でも、ギタリストでもないのだ。ある意味ではギタリストなのかもしれな いけれど。 とにかく、このコは僕の夢の中に出てくる登場人物なんだ。  そう夢だ。しかもこれは自由に動ける明晰夢と思われる。そう考えて安心した僕は颯爽 と右手からストリートダンスのような流れでソファーから飛び上がろうとした。ちょっと カッコつけたかったりも手伝って。ギターが人間になるような自由な世界だ。熟達したパ フォーマーができるような動きも簡単に、イメージ次第で、何だってできるはずだ。そう 確信したのでやってみた。このまま空だって飛べるかもしれない。頑張ってもムリっぽい けど。  でも結局のところ僕は起きあがれなかった。無理に起あがろうとしたので、右手の関節 を痛めて、それを押さえて痛みでもがいているうちにソファーから盛大に叩き落ちてしま った。  全身に衝撃が走った。膝から落ちたようで、幾分かの痛みが走る。手と膝が痛いので左 手で右手を抑え、横になった体育座りのような体制になって痛みをこらえていた。これは 夢ではなかったのか?そう思って僕は、ガラステーブルとソファーの間から起き上がった。 「大丈夫?」  彼女が心配して、今、起き上がった僕の様子を見ている。 「うん、平気だよこれくらい。」  そういいながら僕は自分の体をさする。 「僕は・・・今、起きてるみたいだね?」 「もう何寝ぼけてんの?」 「え、」 「起きてるんじゃないかしら?私の目が正しければ。」  彼女の言い方に僕は幾分トゲのあるように聞こえた。でも、僕は起きているみたいだ。そして目の前 に居るのが本物の僕のギターだ。なぜそんな風になったのかは全然分からないが、とにかく僕 の前に人間になったギターが居る。 「ねぇそれよりさぁ、私を弾いてヨ。」  彼女は少し恥ずかしそうに言った。でもそれが何を意味するのか分からなかった。弾く、と はギターの場合、弦をピックで弾く事にある。見たところ、弦は何処にも見当たらない。人を 弾くという概念がそもそもわからない。つーかそもそもありえない。 「え、どうやって?」 「も〜う!分からないかなぁ、私を抱いてって言ってるの!」  彼女はもういわせないでよねぇ、というような恥ずかしそうな表情をうかべて僕をみつめ た。そんな事、僕には恥ずかしくてできるわけない。  僕のギターだとしても、初対面の女の子をいきなり抱くのは気が退ける。でも、男だったら もっとイヤだ。あたりまえだけど。しばらくそんな事が頭を巡り、僕が思考回路をめぐらせていたら彼女が言った。 「はやくしてヨ。」  彼女は僕を急かすように言った。仕方がないので、僕はいわれるまま肩から彼女を抱く事にした。 日ごろの有って無いような軽い性欲も手伝い、素直に応じて見たりする。  夜中に僕と彼女以外誰も居ない部屋で抱きあう。僕らの他に誰も居ないのにとても恥ずかしい。 しかし、抱いてからは何故か羞恥心は感じられなくなった。彼女の暖かなぬくもりのあ る体は僕の体に不思議なほどなじんだ。僕は羞恥心というよりも深い安らぎを覚えたのだ。  その感覚は、間違いなく僕のギターだった。 「ねぇ〜。」  抱いたままの体勢で彼女が話し掛ける。 「なぁに?」 「あれ?抱くだけ〜?ホントに。」  彼女はからかうように僕に言った。 「じゃあ、僕にどうしろって言うんだ?」 「持っているだけじゃ弾けないよ、ねぇ。」  確かに持っているだけじゃギターは弾けない。弾くにはピックを使って弦を弾かなければい けないのだ。でも僕にはそんな事は分かっている。でも僕のギターはいまや人間になってしま っている。どうしたらいいんだか。誰か説明書もってこいよ。 「んじゃあ、どうしろってんだ?髪の毛を弾くと音が鳴るとか?」  一応思いつく範囲で言って見たものの、いまいち的を得ない感じがする。 「キスをするの。言わせないで、恥ずかしいじゃない。」  彼女が赤面し、そっと目をじらせた。  僕の胸が急に高鳴ってきた。わ〜もうどうしたらいいんだ?この状況けっこうヤバい。。。  でも、と僕は思った。これは、自分のギターなんだ。落ち着けよ、たかがギターじゃん。 自分が、近所のデパートの三階の一角にある、ギターの店で買ってきた安物のエレアコじゃな いか。そう自分に言い聞かせた。でも、胸の高鳴りは押さえられなかった。  彼女の顔はもう真近で、彼女の方もキスを求めているようだ。ここまで来たら仕方が無い。 僕はもうキスをするしかないのだ。もう恥ずかしくなって逃げ出したい気分だ。 しかし、そんな気分になって見たところで彼女は僕のギターなんだよな。 落ち着けよ、たかがギターじゃん。って言ったの2回目だしさ。  時刻は2時を回っている。まさかこれから警察に連絡しても、事態はより悪くなるだけだし、 第一、自分のギターがキスを強要するんですっ!なんて言ったら、警察の方で、もう寝なさいと言 われるのがオチだろう。こりゃ酷いな。  さっきからそんな混乱から逃げる事に必死になっている自分が居るのに気づいて、逆にキスの 一つや二つ、してやろうじゃないかと思って、自分ではバンジージャンプをするような気分で、 彼女にくちづけをした。万事休す。  するとその瞬間、頭の中で何かが鳴った。間違いない、これは僕のギターの音だ。ギターの、 僕の弾いたようないささか調子はずれなソの音が、頭の中で自信なさそうに響いた。僕は驚い て彼女から唇を離した。 「・・・これは?」 「ソ」  彼女は僕の目を見つめ、究極にして単純に言い放った。でも僕の聞きたいのはそんなんじゃ ない。なぜくちづけをした瞬間に音がなるのかを聞きたかったのだ。 「いや、それは分かってる。でも・・・どうして鳴るんだ?」 「それは簡単よ。」  でもそれは僕にとって余り簡単じゃない問題だった。 「貴方の心が、私の心を弾いたからv」  彼女は赤くなりそうなほっぺたをかくし、照れたように答えた。なんだかもう困ってしまっ た。こっちだってそんな事を言うから照れくさいし、もうどうにでもして欲しい気分になった。 ギターかよ!音かよ!弾いたのかよ!と安いツッコミまで入れてしまいそうになる。 「い〜い、良く聞いて。音程は、貴方の心をあらわしているの。そして私を弾いて、音を出す のよ。もう、まだへたっぴなんだから。わかった?」  至近距離で見つめながら、子供に言って聞かせるように彼女が言うので、どうしていいか分 からなくなった。もう、なんというか、完全にしてやられた。 「うん・・。」  * * *  ミスティーでソリッドな早朝。  ゴミ捨て場で喧嘩する、カラスの鳴き声で目が覚めた。  彼女は僕の寝てしまった間に、ギターに戻っていた。部屋には彼女の温もりの形跡がわずか に感じられるようだ。  ソファーから起きると僕は洗面所に行き髭剃りで、朝一番に生えてきた髭をそった。ついで に顔も洗って、今日一日が始まった気がした。  それから朝の便をたし、服を着替えた。  昨日は私服のまま寝てしまった。最近多い。それは僕が疲れているせいなのだろうか。パジ ャマは一応あるにはあるのだけれど、帰ってきた時はもう着替えるのが面倒になっているのだ。  その原因は大体分かる。僕の生計をたてているアルバイト先への経路が複雑で、おまけに肉 体派でも無いのに、裏でのハードな在庫整理をやらされている。  めったに接客をやらせてくれないのは、見てくれが悪いせいかもしれない。目つきが悪いか らな。売れないギタリストに多いような顔だ。そうでなくても、あの理不尽な店長に十分嫌わ れているのだ。接客を頼んだら間違いなくトイレ掃除専門に回される。  どうせ「トイレが綺麗な会社は良い会社である。よって、接客の第一には良い会社にする事 が大事である。」とか、もっともらしい事言い始めるに決まってるし。  上には、店がきちんと成り立っていればなんとでも報告出来るから、僕一人がどんな仕打ち を受けようとも、何も知らされないだろう。仮に知っていたとしてもアルバイトの首一つだ。 そんなちっぽけな一人の為に、上は動かねえ。世の中のシステムというものは概 ねそのようなものだ。周囲ももちろん、関わりあいになりたくないので見て見ぬふり。自己責 任という言葉の残酷さがその瞬間垣間見える。でも、そんなのは分かりきっている。  最近、接客で優秀な奴がこのバイトに入ってきた。小澤という奴だ。店長が来ると、まるで 金魚の糞のようにヘコヘコしてやがんの。ぶっちゃけウザイんだよね。それで店長居なくなる と急に態度が豹変するからやってらんねえ。もう話したくも無いって思ってんだけどさすがに ここまで嫌悪な態度をすれば相手がどんな厚顔でも分かっていると思う。最近僕に接して来 なくなったからだ。  なんだか朝から、これから行くバイトの事を考えて、いきなり凹んだ。もう別のバイトにし ちゃおうかな、とも思った。  でも、バイトを変えても何もならない事は僕には良く分かっている。変えた先には、タイプ こそ違えど、多かれ少なかれ必ずそういう奴は居るのだ。世の中はうまく出来てる。  一人暮らしの安マンションによくある台所付きの玄関で、100円ショップに売っている ようなガラスのコップで水を一杯飲み、髪の毛をてぐしでおざなりに整えて出発した。  マンションの無機質な階段に出る。しょぼくれた旧いマンションなので、手摺りが錆付いた り階段の滑り止めが所々剥がれていたりする。でも全く住めない、ということもないのだ。お 隣や上の階の人間が少しうるさくても、もう僕は受験生ではないから我慢する。そのうち定職 についてもっといいマンションに引っ越せばいいんだ。本当の自由を得るため には、金が掛かるものなのだ。  階段を降りると、外は晴れていた。でも、日は相変わらずあたらない。朝早いし、僕の住ん でいるマンションの他にも高いマンションがこの辺りにはひしめいているからだ。  行き掛けに、僕は憂さ晴らしのように、カラスをゴミ捨て場から追い払って出発した。後ろ を振り向くと、追い払ったはずのカラスが、すぐに戻ってきて、ゴミ捨て場の生ゴミを啄ばん でいた。なんというか、勉強になった。   * * *  新宿御苑から、南新宿にあるコンビニへは、一度新宿で小田急線に乗り換える。もちろん乗 り換えないでも南へ根性で歩いて行けば、たどり着くことができるけれど、そこまで歩くとバ イトで体がもたなくなる。  僕のバイトしているコンビニは南新宿の北口から少し歩いたところにある。三ヶ月定期で少 しお金を浮かせながら、いつも昼のシフトで働く。税金で金が取られるから、 結構いっぱいいっぱいだ。もう少しお金があれば、もっとちゃんとしたところに 住めるんだけどね。時給は800円。  コンビニへ着くと、カウンターに出ている小澤がこちらをちらと見て、たった今来たお客さ んの方に向き直り、何事もなかったかのように商品のバーコードをチェッカーでチェックしは じめた。なんなんだ。  バイトの控え室には誰も居なかった。速やかに、コンビニの制服に着替えた。  制服に着替えて店長を探したけれど居なかったので、小澤に聞こうと一瞬思ったが、やめた。 「おす。」  控え室に戻って小さい洗面所で顔を洗おうとしたその時、前田先輩が入ってきた。やや茶髪 で草履を履き、バナナ色で薄汚れた服を着ている。下は黒のボロいチノパン。先週か ら同じ服を着ていたような気がする。これから海にでも行くような、彼独特の服装だ。 「ちわーす。」  僕も返事を返す。  前田先輩はギターの方でも先輩で、彼もまた新宿周辺でストリートミュージシャンをしてい る。かなり入れ込んでいて、よく弾くのに夢中になってしまって朝帰りになる事が多いと言う 話だ。そうして町で仲良くなった女の子とも時々寝ていると自慢してくる。そういう時は少し ウザいと思うけれど、これも調子に乗るという彼の性格の一つだから仕方がない。  今日は朝夕勤務なので、僕と前田先輩のバイトはこれから始まる。小澤は早朝勤務で、普段 の機嫌が悪そうな顔がよりいっそう顕著に表れていた。  勤務時間までまだ少しあるので、控え室のひびの入ったテーブルに座ると、僕は先輩に昨日 の事を話した。ギターが女の子になってしまった事。そしてその女の子がくちづけを迫ってき た事。もちろん、夢の中の話として話した。現実にあった事だって言ってもまず信じてもらえ ないし、つまらない誤解も生まれかねない。 「へぇ、いい夢見たじゃん。」  彼が僕の話をひととおり聞いて言った。 「そんな夢見れたら見てえよ。っつうか、最近オレ夢なんて見てねえし。」  彼が腕を頭の後ろで組んで、伸びをして、煙草のヤニの付いている天井を見た。 「しかしなぁ、女の子とくちづけして、それが楽器になったら、、、ちょっとイイなー。」  彼がテーブルの上に手を戻して、ニッコリとそう言った。 「でも、マヂビビりましたよォ。僕のギターだったんスけど。でも、キスしたらへたっ ぴなんて言われました。」 「へたっぴ、ねぇー。確かにお前ギターの扱い、うまいとは言えねえな。」 「え?そうっすか?」  それを聞いて僕は少しショックだった。先輩が続けて話す。 「毎回聞く度に、お前音変わってんだよ。ちゃんとチューニングしてんのか?」 「あ・・、してないっす。多少ずれても、手の加減で音程調整してますよ。」 「ばぁか、それじゃダメなんだよ。チューニングしないと、きちんとした音は出ねえんだ。 そしたら今日オレの家にもってこいよ。チューニングしてやっから。」 「え、マヂっすか?」  今日の先輩は気前が良い。何か良い事があったのだろうか? 「おう、その代わり、今日は付き合えよな。」 「あ、分かりました。」  僕はギターの扱いがうまくないようだ。普段これといった手入れをしていないし、その 道具もない。どうやって手入れしていいか分からないから、買う事もないのだ。僕にはも っとギターについての勉強が必要なのだ。  それから間もなく店長が入ってきた。  店長の印象は、始め脂ぎった残雪頑固ジジイのような印象だった。それが今では疲れ切 った残雪頑固ジジイだ。あまり第一印象と変わらない。どこかのヤングマガジンからコ ピー、ペーストしてきたようなやつだ。  彼は挨拶もせずにいきなりこう告げた。 「ヘルシア緑茶、ハコで新しく入ったから在庫数確認。それ終わったら商品棚整理行け。 一時間毎、人少ない時。前田は10時からレジまわる。わかったな。」 * * *  夕方頃、勤務が終わり、新宿御苑にある自分の家からギターを持って前田先輩の家を尋 ねた。  前田先輩の家は、僕の家と同じような造り。住んでいる所まで2階の角部屋と同じだ。 角部屋と言うのは大体が安い物件だから、僕らフリーターにはもってこいの物件なのだ。  僕がノックをすると、先ほどのレジ係でテンションの下がらない前田先輩が、 男の一人暮らしの独特な匂いと一緒に出てきて、入れてくれた。 「よぉ、ギター持ってきたか?」 「はい。」  僕は背負ったギターをはずして、手に持ちかえた。 「んよし、じゃあまずチューニングな。弦は今日変えねえから。」  部屋からはテレビの音が聞こえる。この時間帯にどのチャンネルでもよくやっている特 集を交えたニュースだ。  彼の薄暗い蛍光灯の家は、ベッドが半分を占めている。白と黒で統一されて――目指し て――いる部屋で、すこしごみごみしている。ジャンプや、カップラーメンの空き箱が散 乱しているのだ。 「まぁ、汚いけどそこに座って、ギター出して。チューナーこれね。」  彼は部屋の隅の、横に転がっている汚れたチューナーを目の前に出した。  電源をつないだチューナーに接続して、第一音を鳴らした。昨日の夜と同じ自信なさそうな ソの音が聞こえた。これが女性の姿だと、とても困ってしまうけど今は普通のギターにな っているので安心だ。  ラシドレと順番に弾いて見たが、皆自信なさそうに聞こえる。こんなのを聞いていると、だ んだん自分も自信がなくなってきそうだ。  チューナーの針を同じ位置まで持って来るようにチューニングしながら弾いていると、先輩 が聴きかねて言った。 「ん?なぁ、もう一度一オクターブ前のソからやってみろょ。」 「はい。」  もう一度弾くとさっきは自信なさそうな音だったのが、今度は全体的につんのめった感じに 聞こえるようになった。 「これっさぁ、」  そう言って、僕がチューニングしているチューナーの針を指差して、説明した。 「真ん中。これじゃ、やや上の方じゃん。」 「あ、そっすね。」  確かにチューナーの指している針は、真ん中よりやや上を指している。 「ちゃんと真ん中にしろよ。」 「うぃっす。」  そういいながら、またソから弾いてチューニングをして見た。僕は、同じ位置に針が来れば いいと思ったのだけど、違っていたみたいだ。チューナーの針が真ん中に来るようにチューニ ングする。少なくともこのチューナーはそういう仕組みなのだ。あらためてチューニングして からソラシドと順番に弾いて見ると、今度は正確な音が鳴るようになった。 「ビンゴーぉ」  黒の安物ソファーに、退屈そうに座っている前田先輩はボクのギターを指差しながら言った。 「イケてんじゃん。どう?そろそろ駅でプレーしてこうぜ。」 「え?今からいくんですか?」  僕は驚いた。駅へ行くのは想定していなかったのだ。 「もち。付き合うって約束だろぉ。来いよ。」 * * *  それから僕達は新宿の駅前で、順番に自分の曲を弾いた。僕が弾いているときは、彼は煙草 を吸っていた。そして彼が弾いているときは、僕は携帯のゲームアプリで遊んでいた。二人で セッションしてもいいのだけれど、持ち合わせの曲はあいにくソロばっかりなのだ。  何人かの女子高生達が集まって聞いていた。曲が終わるたびに何処かへ去っていき、また曲 が始まると入れ変わり女子高生が集まってくるという具合だ。でも、その中には毎日来ていて 顔を知っているコも居るし、いつもグループで、話し掛けてきてくれるコも居る。ボク達は基本 的に女の子と話すのが大好きなのだ。そして彼女達もボク達と話すのが好きなのだ。良い相互関 係だ。  僕の作曲した曲の中で一番人気があるのは「コクハク」。女子高生をターゲットにした曲だ。 ねらいどおり結構人気。一方彼は、「戯れ」という曲を弾いている。先輩の人生観をそのま ま表現した曲だ。そう本人も言っている。一見何処にでもありそうな、ごく普通の曲なのだけ れど、真面目に聴いていると奥が深い。このような曲が作れるのは、やはり人生の経験がない と不可能だろう。彼自体に備わっている、表面上の性格に隠れたものが垣間見えるのだ。こ の曲を弾いている先輩は何時になく真剣に見える。  だが女子高生達はあまりそれに気づかない。女子高生が惹かれているのは曲の内容ではない のだ。不幸にもそれは、先輩の端麗なる容姿と、弾いている時のカッコよさのために集まって いた。女子高生は誰も彼の人生観なんて聞きたくはないのだ。極端、歌詞なんて分からなくて もいいのだ。内緒だけれど、僕はそれを良く知っている。少なくとも僕はそう感じている。皮 肉にも誰もが彼の織り成す幻惑に魅了されて、彼自身の本当に表現したい事柄が伝わっていな いのだ。 「前田さ〜んさしいれだよv」  彼が曲を弾き終わると一人の女子高生が小さいビスケットをつまみ、先輩に食べさせた。 「おいしい?」 「う〜んvおいし〜よv」  前田先輩は女子高生におどけるようにして、ニッコリと笑った。僕はそれを見て、彼がいつも の前田先輩に戻ったように見えた。 「はは、じゃあ君もつまみ食いしちゃおうっかなv」 「やーだ!前田っち!」  女子高生達は冗談で済ませてしまったけれど、よくこんな事を平気で言えるものだと思った。 僕にもこんな事がいえたら、ガールフレンドの一人くらいは居たのかもしれない。  女子高生達が行ってしまうと先輩は煙草を吸い、何も言わずギターを片付け始めた。僕も それに続きい片付けを始める。  片付けが終わると、それまで僕達の流していた曲までも片付けてしまったようなもの悲し い雰囲気になった。それは、お祭りが終わった後の盆踊り会場を思わせた。盆踊りの踊り場は 翌日の清掃の為そのままにしてあり、堤燈の電灯が消えて音楽も聞こえない。みんな踊ってい たのに時が過ぎ、去って行ってしまったんだ。もう誰も居ない。  辺りは暗くなり硬質な蛍光灯が点いた。通勤帰りのサラリーマンが川のように駅構内へ流れ て行くのを見て、僕達は楽しい夢から覚めてしまったような気持ちになった。 「・・んじゃ今日は終わり、飲んで帰るぞ。」 「はい」と僕は応えた。  先輩がそう言うまで、長い時間が経った気がした。先輩は、楽しかった夢がもう戻ってこな いという事実を注意深く確認しながら言ったように見えた。  僕達はそのあと、新宿の駅前にある居酒屋に立ち寄った。居酒屋につくまで僕達のした 事は、煙草を吸った事とゲームアプリで遊んでいて転びそうになった事だった。僕も先輩も 何を話していいか分からなかったのだ。または、僕がゲームアプリに夢中になっていたせい で、先輩が話し掛けられなかったのかもしれない。  居酒屋に着くと店員に空いている席を聞いた。まだ夜になったばっかりなので、殆どがら空 きだった。店員はボク達を空いている席に案内した。  案内された所は床から少し高くなっている畳の、間仕切りで仕切っている小部屋だった。普 通の席とは別に宴会用の席が店の端にあるのだ。入り口には「さくら」と書いてあった。部屋 まで案内すると、店員は注文が決まったらまた来るというような事を言っていた。店員を呼ぶ には卓袱台に備え付けてあるボタンを押すのだ。  僕達はまず互いの座る席の隣に荷物を、藍染めの座布団の上に降ろし対面するように座っ た。あぐらをかいて座布団の上に座ってしまうと、ほぼ同時に僕達はため息をついた。 「今日はおまえ何飲むの?」  先輩は卓袱台に置いてあるメニューを開き、僕に見せた。  僕はまだ決めて居なかったけれどウイスキーや焼酎だと重いので、カクテルやチューハイに しようと思った。少なくともここではそう言ったモノが僕にとっては気軽に飲めるのだ。でも 僕は考えているうちにビールが飲みたくなった。他の飲み物なんて二杯目以降でいいじゃない か。そんな気がした。 「今日はビールが飲みたいですね。」 「よし、おっけ決まりな。」  すると先輩はもうすでに考えていたようにすぐ卓袱台に備え付けてあるボタンを押した。   ボタンを押すと間もなく店員が僕達の所へやってきた。先輩が注文すると、しばらくして飲 み物がやってきた。  先輩の飲み物はオンザロックにしてあるウイスキーだった。  何か変だった。先輩は普段、こんな重いものは飲まないはずだ。いつも軽い(あるいは軽そ うな)飲み物しか飲まないのに。お酒は弱くはないのだけれど、先輩はそのような飲み方をす るはずなのだ。 「先輩・・・?今日はなんでまたウイスキーなんですか?」  僕は先輩に質問すると、彼は笑って答えた。 「ああ、ちょっと今日はオレにとって特別な日なんだ。なぁに、お前だってビールじゃん。何 気にレモンチューハイじゃねえし。」 「まあそうっすね。ははは。」僕はレモンチューハイが好きなのだ。  それから僕達は飲みながら実に色々な話をした。バイトの事、先輩の彼女達の事、それから 毎日の生活の事。でも彼は途中で妙な事を言い始めた。それはだいぶ酔いがまわって、店長の 冗談を言って笑い合っていた時だった。 「ははは、マジヤバイっすね!」 「なぁ・・・」  その会話の始まりは、僕に不思議な違和感を与えた。 「・・・はい?」  先輩が急に声色を変えたので、僕は先輩の方をふと振り向いた。彼は泥酔して、片手でグラ スを傾け回し、虚空の一点を見つめていた。彼はすでに五杯目を飲んでいた。 「人ってさ、死んだ後どうなんだろうな。」  僕は言葉を失った。いきなり話題が変わったのも一つの原因なのだけれど、それ以上に先輩 がそんな事を言うとは思わなかったからだ。 「え?急に何言っちゃってんですか!先輩。」 「真面目に、聞いてくれないか。」  同じ調子で先輩が言う。 「え、あ、はい。」  今の先輩の態度は、いつもと全く違ったものになっていた。彼が真面目に相手に腹を割って 話すと言うのはめずらしい事なのだ。彼の表情は、酔ってはいたものの「戯れ」を弾いている 時のように真剣だった。  僕は先輩の言った事について、考えるふりをして言った。 「死んだら、天国や地獄へ行くんじゃないんですかね?」  まあこれは普通の人が普通に考えると至極当然な答えだと思う。 ただそれは一般的な常識を言ったまでだけど。 「いや、それは一般論だ。誰もが死後の世界を想像するまでしか到達してない。」  前田先輩が虚空の一点を見つめたまま、わずかに首を振った。 「そっすね。死んだ後の事なんて死んで見ないと分かんないっすからね。」  今日の先輩は一体どうしたんだろう、なにかイヤな事でもあったのだろうか。それにしても 何故こんな事を考えているのだろう、他に考える事なんていくらでもあるのに。家の事やらバ イトの事やら。あるいは女の子にフラれて落ち込んでいるのだろうか。  彼はウイスキーの五杯目を一気に飲み干すと、言葉を続けた。 「でもオレさ、あの世ってヤツがなんとなく分かってきた。ずっと考えてるうちにさ。」 「マジっすか?」  僕は特に意味のない受け答えをした。彼はそれからしばらく沈黙した。言葉が見つからない わけではなく、とても口に出すのが残酷だと言った雰囲気が感じられる。でも、彼は言った。 「なにもないんだと思う。」  僕は言葉に詰まった。なんていえばいいか、適切な言葉が出てこなかったのだ。そして先輩 が続ける。 「ないんだよ。天国や地獄なんてそもそも初めからないんだ。生まれ変わったりもしない。消 えて無くなるだけ。オレはそんな気がするんだ。」  先輩はそう言って煙草に火をつけ吸った。彼の煙草の煙はいつもより勇ましく感じられた。 「だからオレこんな感じに生きてンだよね。一回しかない人生だからさ、女の子と遊んだり 色々音楽作ったりさ。なんだろ、オレの哲学っつうのかな、どうせ消えちまうなら、居なくな っちまうんなら楽しくやりてえんだ。皆が羨ましがるくらいにさ!」  彼は話している間に、何時の間にか元の前田先輩に戻っていた。彼は煙草を消すと荷物をま とめ始めた。僕もそれにあわせて、荷物をまとめた。 「帰るか。わりぃな、こんなワケわかんねぇ事話しちゃって。飲みすぎたみたいだ。」 「送っていきますよ。」と僕が言ったが、先輩はいや、いいと言って断った。 * * *  それから僕は電車で家に帰って来た。普段より随分遅い時間だ。バイトが終わった後すぐに 帰ってくるので、いつもはもっと早い時間に家にいる。いつも道草を食わずに帰ってき て、じっくりとギターを弾いている。まだストリートミュージシャンとしてはかけだしなので プロとして活躍するようになるまではもっと練習しなければいけない。  夕方くらいから窓をあけて網戸にしてその前に扇風機を置いておくとなかなかいい涼風が部 屋の中に吹いてくるのだが、朝部屋を閉めてからずっとそのままだったので少しムッとする。  窓を開け空気を一息吸い込むと喉の渇きを感じた。そこで台所で朝バイトへ行く時に、百円 のコップでまた水を汲んで飲んだ。もちろんちゃんとゆすいだ。  部屋にはテレビはない。テレビの無い部屋ではギターを弾くしかないので僕は自然と自分の 趣味に打ち込む事ができる。外からの情報は日経新聞から入ってくるし、テレビが無くても困 る事はない。ただ面白い番組が見れなくなるのが難点だ。でも今はそんな無駄な時間はあまり 取りたくないので新聞だけでいいと思っている。余計な物がなくなれば、その分やる事もなく なるのだ。  けれど現実には、きちんとやる事はあった。昨日ギターを弾く前から水につけてあったスパゲッティー の皿を洗わなければいけなかったし、風呂に入って一日の疲れを癒さなければならなかった。  今日はもう遅いし、ギターを弾くのは止めたいけれど一日でも欠かしてしまうと腕が落ちて しまうように思ったので、結局弾く事にしようと思った。いずれにしても風呂へ入ってからだ。  少しぬるめの風呂に入りながら色々な事を考えていた。先輩の「戯れ」、そしてその後の居 酒屋での先輩の顔、それから先輩の部屋の黒いギターアンプ。次々とイメージの断片が像を作 り、そして消えて行った。  それから僕はふと思いだした。ギターの女性の事だ。僕は彼女の名前を忘れてしまって いた。いや、彼女の名前を初めから聞いていなかったのだ。でもそんな事はいいや、と僕は 思っていた。なぜならそれは、僕の夢に出てくるはずの登場人物だったからだ。  あの子は夢だったんだ・・・僕は頭の中で自分に言い聞かせた。でも彼女は可愛かったか もしれない。自分だけでは上手く判断できないけれど、僕の観点からすると彼女は間違いな く美女の域に属していた。  風呂から上がり、体を拭いて着替えているときにギターを見ていた。彼女とくちづけをする と、きちんとギターの音がなっていた。それは彼女自身の心の音だった。心同士の触れ合う音 が、僕の脳内で音として処理したのだ。そうでなければ、弾いた音が僕の脳内で彼女とのくちづけ として処理したのだ。  少し小腹が空いた。居酒屋で少しつまみとして食べてきたのだけれど、ビールの方が多かっ たのだ。  料理をしようとして冷蔵庫を空けたらにんじんとメークインのジャガイモが入っていたので、 それを軽くスライスして、軽く焦げ目がつくくらい中火で炒めた。そして後からハムの乗せて、 少しだけ残ったご飯を添えた。簡単な料理ならいくらでも作れるようになった。一人暮らしを して得た成果のようなものだ。その料理をテーブルへ持って行き、箸で自分の料理した物を食 べた。彼女が居たら食べさせてあげるんだけどな。僕はそう思った。 「呼んだ?」  屈託の無い口調で突然彼女が話し掛けてきた。  気が付くと僕のギターはいつのまにか女性になっていた。テーブルの上にすわり、箸を使っ て食べている僕を見下ろしていた。 「うわっ!」  僕がのけぞると、彼女は言った。 「そんなに驚かなくてもいいじゃない。」  でも考えて見てほしい。自分以外誰も居ないはずの部屋で、間髪入れず誰かが突然話し掛け てきたらびっくりすると思う。  そういえばギターはテーブルの上に置いてあったのだ。食事を摂る事に夢中になってすっか りギターの事が死角になっていた。そしてその死角の間にギターは、彼女になった。  彼女がテーブルを降りると僕の隣に寄り添うように座った。彼女のやわらかい体の感触と体 温が伝わってくる。 「いや、フツーにビビッから。」  少し恥ずかしくなってしどろもどろに僕が言うのをよそに、彼女は何食わぬ顔で、 「あらごめんなさい。」と言った。  僕は気をとりなおし、そのまま食事をつづける。僕がカツカツと箸と食器のあたる音を出しな がら食べていると彼女が言った。 「おいしそうね。」 「うん、、、まぁね。」 「慎也が作ったの?」 「うん、、、まぁね。」  そう言いながら食べていたが、少しの間を置いて僕は箸を止めた。そのまま彼女の言葉をス ルーしようとしたのだけれど、久しぶりに他人から自分の名前を聞いたような気がしたので少 し驚いた。そういえば今日だって一回も僕の名前は呼ばれなかったのだ。あの残雪ジジイにも。  名前の関連で、さっきの事を思い出した。僕は彼女に名前を聞くのだった。なんだか肝心な 場所で肝心な事をいつも聞きそびれているような気がする。  箸を持ったまま彼女に質問した。 「名前・・・。」 「ぅん?」  僕は、彼女のきょとんとしている顔を見つめて言った。 「名前なんていうの?」  彼女は、そういえばそうだったと言うように、手をポンと叩いた。 「そう、ごめん。私の名前はフォレッタ。フォレッタ・カノールよ。」  彼女はフォレッタという名前だった。あまり聞かない名前だ。 「そうか。ん、いやこっちこそ昨日、名前聞かなかったから。」 「ええ、いいのよ私いつも忘れちゃうの。忘れっぽいみたい。」  昨日会った時より彼女は綺麗になった。そう思ったのは気のせいなのかもしれない。 同じようにピンクのブラウスに白いデニムという姿で、その上に透明な布を着ている。 昨日と変わらない彼女だったけれど、何処となく雰囲気が変わった気がする。 「そういえばなんで僕の名前を知っているんだ?」  気になって聞いて見ると、 「それはもちろん、私はあなたの所持品だから。ご主人様の名前は覚えておかなければいけないわ。」 と彼女はこたえた。僕がその答えに迷っていると彼女が続けた。 「ねぇ、あなたの事はなんて呼べばいい?」 「え?」 「慎也、慎也くん、慎也ちゃん、慎様、、それともご主人様?とか?」  彼女は悪戯っぽく笑った。なんかご主人様って言われたら照れてしまうじゃないか。それを 彼女は分かってて敢えて言ったのだ。そんな風に呼ばれると恥ずかしくて困ってしまう。 「慎也でいいから、マジ。」  オレが焦りながらそういうと彼女は少し残念そうな笑みを浮かべて、 「う〜ん、分かったわ。私の事はフォレッタって呼んでね。」 「わかったよ。」 * * *  食事を終えて、僕はフォレッタを弾く事にした。幾つかの手持ちの曲と今流行りの曲を あわせて、彼女とのくちづけで弾き続けた。彼女を弾くことに少しづつ慣れていく僕自身に驚きながら。 「ね〜ぇ慎也」 「ん、なに?」 「今日はありがとう。」  彼女は僕に抱かれながらそう言った。彼女の柔軟な胸が、僕の胸板にあたり、体温が伝わってくる。 「何が?」 「私をチューナーに掛けてくれたんでしょ?」  腕の中で彼女が僕の目を見つめた。彼女の体温はさっきより暖かくなったように感じられた。 「まぁね。」  彼女は嬉しそうに長い髪を手で後ろにかきあげた。 「どう?私、綺麗になった?」 「うん・・・。」  彼女は明らかに綺麗になっていた。それは外見ではなく、彼女の中の何かが前より魅力 的になっていたのだ。くちづけをするときちんとした音程で僕の脳内に旋律が流れる。でも、 その事が彼女の綺麗になった直接の原因ではない。  それは僕が彼女に惚れている、何よりの証拠だった。 * * *  朝だ。少なくとも壁に掛けてある時計の針は朝を指している。光の差し込まないカーテ ン越しの窓の外を見ると、雨が降っているのが分かった。いつもより差し込んでくる光が 沈黙を増している。  僕はまた何時の間にか寝てしまったようだ。雨音が一定のノイズを刻んでいる。ソフ ァーの上で沈黙の光が照らし出す、堅く白い薄模様の天井を見つめていた。  体を起こしてテーブルを見ると、彼女はまたギターに戻ってしまっていた。まるで悪い 呪いが掛かっているみたいに彼女はじっと動かないでいた。それを見ていると、彼女がや はり夢だったように思える。  7時まで彼女をずっと眺め続けていた。長い時間が経ったような気がしたが、それはそ んなに長くない時間だった。  遠くで聞こえる色を失ったトラックの淡い音で僕の意識は現実に戻された。そうだ、僕 にはやらなくてはいけない仕事があるんだ。たかがアルバイトだけど、それでも。  僕は起き上がり、ガラステーブルの上にあるギターを持ち、日経新聞を軽く蹴飛ばし、 その下にあるギターケースの中に彼女を入れた。新聞は玄関の下駄箱の隣に貯めてある。 毎月の回収日に新聞を回収するまで貯めていて一気に出すのだが、よく新聞回収の日を忘 れてしまうので今は一ヶ月の束が三階建てになっている。蹴飛ばした日経新聞はその後、 その建造物の最上階に上積みされる事となった。  洗面所で髭を剃り顔を洗った。鏡を見ると、昨日の酒がまだ少しだけ残っているようで、 顔色がすぐれない。用便を足し、それから台所で一杯の水を飲み、髪の毛を軽く手串で整 えて、バイトへ出発した。 * * *  地下鉄、新宿御苑前の駅には朝、沢山の通勤客が流れ出る。本当に流れている。その流 れを、電車が汲みあげ、別の場所へ運んでいく。僕もその大河の一滴の水なのだ。でもそ んな気分にはちっともなれなかった。そんな気分になるには、僕自身の中にある何かの反 発心が強すぎるのだ。まだ僕は夢を見続けていたい。いつかその夢が叶うまで。  バイト先へ着くと、誰からも挨拶はなかった。昨日と同じで小澤がオレを一瞬睨んだだけだ。 また小澤は深夜勤務だった。僕がフォレッタと弾いていた時もきっと彼はレジに立っていたのだ。  服を着替えると、店長が入ってきた。そして店長は挨拶もせずに、 仕事の用件だけを述べた。 「これから棚整理、それから小澤に言ってレジ交代しろ」 彼はそう言ってすぐに控え室から出て行った。  「分かりました」 僕は彼にの背中に向かってむなしく言った。  今日はただ棚整理をやった後、レジをやればいいのだ。決められたことをやっていれば 怒られることも少ししかない。控え室のホワイトボードにも書いてあるはずだ。  仕事は一日で大概ローテーションする。けれど時々、一定の仕事ができるヤツが入ると、 そのローテーションはストップすることがある。そういうヤツは大抵レジが得意だったり もする。もっと言えばそいつは小澤だったりもする。あいつはムカつくけれど確かに僕よ り能力はある。それだけは言える。オレが小澤みたいな事をしてもなかなかあそこまで首 尾良く行かない。あいつの表向き接客能力に関しては賞賛さえ抱いてるくらいだ。ただ僕 に対してはガラッとキャラが変わる。それが彼の珠に傷を作っている。もちろん客や店 長が居る前では何でもないようにしているけれど。  「おい」  レジに入る前、棚整理をしている途中で客の居ないとき店長がイライラした声色で、い きなり話し掛けてきた。 「はい何でしょう?」  また何か言われるかもしれないと心がまえをした。置き方が雑だとか、商品が邪魔でお 客様が通れないとかまた色々言われるのだろう。でもそれは僕の予想に反したものだった。 「前田見なかったか?」  それは先輩の事だった。そういえば朝から前田先輩に会っていない。今日も僕と同じ時 間帯で仕事が入っているはずだ。昨日のウィスキーで二日酔いしているのかもしれない。 「はぁ、どうしたんでしょうかね。」  僕はポテトチップスの袋を二列で棚に詰めながら、興味なさげに言った。前田先輩は以 前にも無断欠勤する事があった。大抵泊まりで女の子の家が遠かった時だ。二〜三ヶ月前、 夏に熱海から連絡して来た事もあってびっくりした。 「ふん、知らないのか。まぁ〜たあいつは無断欠勤だな。所詮あいつはその程度の男だ。 家で酔い潰れてるか、はたまた女遊びか・・・まぁお前も気ぃ付けるんだな、最近たるんで んだよ。」 冷ややかにそう言って店長は僕の肩を叩いてまたどこかへ行ってしまった。  余計な事がいちいち口をついて出る、それが店長の悪い癖だった。そのせいで僕はとて も迷惑している。店長は自覚無しにそのような事を言うのだ。何故前田先輩が休んだだけ なのに僕がそんな事を言われなくてはいけない!?僕が一体何をしたというのだ?でも、 いつものことだ。それが回りまわって業績不振に結びついている事を彼は分かっているの だろうか。そう本人の前で大声で言ってやりたい。でもそれが本当に業績不振に結びつい ているのか僕にも分からないけれど。まあしかし、僕まで余計な事を言う必要はないじゃ ないか。と、僕は考え直して自分の作業を続けた。  レジの交代の時にも僕は嫌な思いをする事になった。小澤は僕がレジに入ってきたら、 先ほどとは水をうったように態度が変わった。変わるだけならいつもの事だけれど、今度 は余計な事まで言われた。店長の影響だろうと思う。 「おっせぇよ、何分掛かってんだ。」  うぜェ、と思ったがここは一旦相手にも自分にもそれを受け流す事にする。小澤だって 深夜勤務で疲れているのだ。だけど、一方こんな奴勝手に疲れとけばいいような気がする。 「さぁね・・・それじゃあ交代するから。」  僕が我慢しながらそういうと彼はやけにでかいため息をつきながら交互に肩を伸ばして、 控え室へ入って行った。苛立ちのこもったため息が僕の脳裏にとどまっていた。やる事い ちいちいちいち気に障る。そのうち寝首を刈いてやる。と心の中で思ってストレスを発散 させた。これが一番周囲に影響の無いやり過ごし方だ。そして僕はそれを習得しているか らこそここで生き残っているようなものだ。無神経な奴が居るから世の中ストレスが溜まる。  それにしても今日はやけに疲れている。自分の体の色々な部分が重い。肩から頭から背 中から、鉛の服を着ているようだ。何故だろう?  それを考える間もなくお客さんがレジにやってきた。病院が目の前なので果物を買って 行くお年を召した女性が多い。いきなり世間話をする人も居る。後ろに人が居るのもお構 いなしに世間話をはじめる方は特に困ってしまう。しかも、世間話と言えどそれは決して 面白い話ばかりではないのでそういう時は気が滅入る。実際にそういう人は時々居る。 色々聞けるのは良い事だと思うけれど、そういう時はレジに目を向け、あくまで仕事がメ インであると相手に印象付けるしかない。レジは一つしかない。ここを止めてしまったら 終りなのだ。  そうしてレジでお客さんへの受け答えをこなしながら、根気良くクリアしていく。言い替え るならば一人一人の顧客満足度を100%にしていく。実際にはそれを上回る勢いで 望む。そうすればやがてリピーターが現れるようになり、このコンビニの業績は上がるは ずだ。  でもここはあまりそうとは言えない。病院客が多いので患者の方が退院するとそのピー ターもここには足を運ばなくなってしまうからだ。リピーターが減ってしまうのはマイナス 要因なのだ。無事に患者が退院することができるのは良い事なのだろうけど。 * * *  救急車の音のあまり聞こえない平和な昼前に、ちょっとしたイベントがあった。  タバコはレジで注文するシステムなのだけれど、時々変な注文の仕方をする人がいるの だ。今日は特大級の変な注文だった。このコンビニの店員の間でちょっとした話題になっ ている、コードネーム「スキップターン」がやってきたのだ。前田先輩が密かに名付けた。 両ポケットに手を入れて革ジャンを着ている。ズボンは安そうなジーパンといういでたち。  彼は一週間置きにタバコだけを買いに現れる習性を持っている。帰る時になぜかスキッ プターンして帰る。別に先天的に足や、脳に異常があるわけでもなく、その行動は謎に包 まれている。実際に見たのは僕は初めてだった。 「おい、タバコくれよぉ」  彼は入ってくるなりレジに来ていきなりそう言った。彼のアクセントが「くれ」の所に 付いているので、それだけで噴き出してしまいそうになる。子供が母親にねだっているよ うな口調だ。 「はい、何にいたしましょう?」  平静を保って応対する。スキップターンも一応お客様なのだ。失礼な事は出来ない。そ れにしてもタバコと言っても何十銘柄もある。タバコ、だけじゃ一体何のタバコを指して いるのか分からない。でもそれはまだまだ序の口だった。彼はもっと難解な注文をよこし てきた。 「そこの白いやつ、天道虫ぃ」  一体この人は何を言っているんだろうか?一瞬彼の正気を疑った。天道虫?野原でつか まえてこいよ。 「はぁ、どちらでしょうか?」  ボクがそういうと彼は少し面倒くさそうにカウンターに上半身を乗り出して自分の欲し いタバコの銘柄を指さした。その姿が、檻の中の猿がバナナを欲しがっている風に見えた。 「それぇ」  彼の指差したのはセブンスターだった。指をさされてもそれが何故天道虫なのか合点行 かなかったが、会計の時にレジスターの液晶にセブンスターと出てやっと分かった。 「こちらですね、280円になります。」 「あいっ」  彼はそう言って280円をボロい財布から取り出し、払った。 彼はセブンスターをナナホシと直して天道虫と言ったのだろう。でも天道虫はナナホシテ ントウだけじゃない。まぁ、分かったからいいんだけど。  彼の後姿をそんな心境で見ていると、いきなりスキップターンをしたので驚いた。天道 虫の事を考えていて、スキップターンがスキップターンをする事を今まで忘れていたのだ。 彼は華麗なるスキップターンを披露した後、何事も無かったかのように店を出て行った。 キメタぜっ。  それにしても、新宿には本当にこんな人がいるのだ。タバコを買うのがスキップして ターンする程嬉しいのだろうか?それにしても彼を拝めて良いリフレッシュになった。 彼のおかげで僕は一日中楽しく過ごす事が出来るじゃないか。  控え室のホワイトボードには店長の言ったこと全てが書かれているわけではなかった。 オレはレジの後裏でドリンクをセーブしなければいけないし。少なくなった商品を足さな ければいけない。その間レジは影の薄い別のバイトに任せる。交代交代で毎時間やって行 くローテーションだ。でもその人とは特に仲良くもないし名前もよく思い出せない。黒淵 のメガネをかけている冴えない男だ。 * * *  雨はもう止んでいた。  バイトが終り帰り支度をする。ボクは商品の整理とレジで体中におもりが乗っかったみ たいになっていた。普段はそれだけの仕事量じゃ絶対そんな事にならないはずなのに変だ。 先輩との酒がまだ体に残っているのだろうか?  帰りの南新宿の駅まではしばらく通りを歩く。病院側の道とは対称的な狭い道が続き、 更に車がよく通るので、ここは少し危険だ。前を歩いている早歩きのOLが、乗用者を避 けてつまづきそうになった。  一方僕は駅までゆっくり歩く。それでも二人から三人くらいお年寄りを追い抜いた。だ いたいそんなペース。僕は疲れているとは言え、まだ若いんだ。そんなに遅く歩いていた ら余計疲れてしまう。  狭い道に路上駐車してある邪魔な白い軽車両を通るとき、一度前から車が来て足止めさ れたが、間もなくそれも通り過ぎた。駅に入る時にレッカー車が僕とすれ違いに進んで行 くのが見えた。  新宿御苑前までの切符を買い、夕方の駅のホームで電車を待つ。新宿御苑の降りるホー ム出入り口に近い位置に大体目見当をつけて並んでおく。こうしておくと駅から出るとき、 改札から近いのですぐに出られるのだ。その分混んでいるけれど。  並んだ先には少々苛立った女性と小さい女の子が居た。母親だろうその女性は大きな荷 物を抱えている。よほど多くの買い物をしたらしい。  女の子の方は何やらしょんぼりしているようで、じっとして動かない。二人は沈黙しな がらただ電車を待っていた。その電車はあと三分程でやってくる。  「ねぇ由紀子、もうそんな顔するのやめなさい。」  母親がそういうと女の子は黙ったまま母親の顔を見た。また何か言われるんじゃないか といった顔だった。  少し間をおいて女の子は言った。  「ママ、私の事嫌いじゃないよね。」 「なぁに言ってるのぉ、」  母親は荷物を置き、その子供由紀子の目線までかがんで、両肩に優しく手を乗せ、それ からまた片方の手で女の子の頬をなでた。 「由紀子がだぁーい好きだからママは叱ったのよ。あんな所で駄々をこねるからぁ。あの 時、叩いたママの手も痛かったんだからね。」 「うん、分かったママ、もうしないよ。」  母親はもとの体勢に戻り、引き続き電車を待った。彼女はさっきより気分が幾分ほぐれ たように見えた。  母は、ふと気が付いたように言った。 「あ、由紀子、今夜はカレーにしよっか。」  それを聞いて、にわかに女の子の表情が晴れた。 「え!?ホントぉ?」 「本当よ。今日はホントはパパの大好きな金平ごぼうにしたかったんだけどね。」 「わぁ〜い、やったぁ。」  女の子は嬉しそうにぴょんぴょんと飛びはねた。でも調子に乗ってはしゃいでいるのを 母親が即座にたしなめた。こういうところはさすが母親という感じがする。 「ほら!、またはしゃがないの!」 「ごめんなさーい。」  でも女の子のうきうきは止まないようだった。  そんなにカレーが好きなのだろうか、そういった些細な事で楽しい気分になれるような 女の子を見ているとなんか僕の方まで楽しくなってくる感じがする。僕もそういった些細 な事で嬉しくなってみたいものだ。  間もなく新宿御苑前行きの列車が駅のホームに入ってきた。母親は女の子の手を引き、 そしてもう片方の手で女の子の軽そうな背中を後押しし、一緒に乗りこんだ。  それは僕が電車に乗るまでのたった三分間の出来事だった。それだけの間に、母親と女 の子の何かしこりのような物が跡形も無く消えていた。  僕は同じ三分間で、カップラーメンしか作れない。 * * *  新宿御苑前の駅から家に帰ってきた、まだ外が明るい。  フォレッタも人になって僕の部屋をウロウロしていない。  いつものように100円ショップで買ったガラスのコップで水を汲み、それを飲んでか らソファーに座る。部屋が少々蒸し暑いのを感じたので窓を開け、網戸の前に扇風機を置 く。そして玄関の換気扇をつけると、夕方の涼風が、部屋に舞い込んで来た。  部屋が涼しくなって、一息入れてから今日入ってきた日経新聞をめくっていく。どの ページにも、僕の興味を刺激させるようなものは書かれていなかった。  仕方なしに日経新聞をテーブルの上に置き、立ち上がる。立ち上がったはいいものの今 度は何をしていいかわからない。呆け老人じゃないんだから、と自分に軽いツッコミを入 れた。さて、何をしようか。  バイトが終ってしまったら何もすることがないのだ。僕にやれる事と言ったら風呂を沸 かしたり、晩御飯を作ったり、ギターを弾くことしかできない。でも今はそれらの事全て にやる気が起こらない。僕は夜じゃないとやる気にはなれないのだ。  ギターはギターケースの中に相変わらずおさまっている。それはまっくろな棺桶のよう だった。すくなくともそこには、生という物が全く感じられなかった。  いつの間にか寝てしまって、不意に夢を見た。  僕は夢の中で昼間、人間になったフォレッタと町を歩いていた。でも僕にはそれが夢だ という自覚はなかった。彼女は嬉しそうに腕を僕に組んで、寄り添い歩いていた。  いくらかの日差し、でも太陽の存在を求め空を見上げると、それは何処にもみあたらな かった。替わりに、澄んだ空に写真撮影した後のネガのような真っ黒で巨大な目が、僕の事を じっと睨んでいた。自分の目がおかしくなったのか一度地上に視線を落としたが、その目 は空からずっと僕達をみつめていた。  街は、そこらじゅう色の炎に包まれていた。何かの戦争があったように全てが炎で焼か れていた。僕の見る範囲では誰もいない。しかし建物は燃えているのに、何でもないように そこに佇んでいた。  僕達は新宿でもバイト先の近くでもない何処かの細い通りを歩いていた。でも一体何処 へ行くのか検討も付かなかった。 「どこへいくんだ?」  僕は始めフォレッタと一緒に歩いていたが、しばらく歩いているうちにフォレッタに聞 いてみた。行き先が分からない、それだけで僕は不安だった。 「さぁ、あなたの好きな所・・・かな。」  フォレッタは静かにそう言った。  僕の好きなところは何処だろう。まず、僕はそれを考えることになる。僕にはそもそも 好きなところなんて何処にも無い。強いて言うならば自分の家しか好きなところはない。 だから僕には、この先に何が待っているのか分からなかった。またそれが、僕を不安な気 持ちにさせていた。これから何処へ行くのだろう・・・・・・何処から来たかも僕には分からな いと言うのに。  やがて、別の細い通りに出た。さっきよりもっと細い。車一台がやっと通れるほどの幅 しかない。ここにも人気は無く、ずっと遠くまで燃えさかる住宅が立ち並んでいる。目は 僕らを相変わらず凝視している。  そして僕は悪い予感を感じることになった。でも何がそうさせているのかは分からなかった。 燃えさかる炎の地鳴りのような音がそうさせているのかもしれない。  でも結局の所、その悪い予感は当たってしまった。 「!!」  道に黒い毛皮が落ちていた。最初僕はそれを毛皮だと思っていたが、近づくにつれ、そ れが何者かに殺された動物の屍骸だと言うことが分かった。反射的に背筋が凍りつく。 どうやらそれはネコのようだった。顔はメッタメタに砕かれ、表情は読み取れない。誰か が故意にそのようにしたかのように。そのネコからはまだ鮮血が染み出していた。 「ネコが死んでる・・・・・・」 僕がそういうとフォレッタは何かゴミを見るような目でネコの屍骸を見たあと、無感動 に進み始めた。 「いきましょ。」  フォレッタは特にこれといった感情を込めずネコの屍骸をまたいだ。下手をすればその まま蹴飛ばしてしまいそうだった。 「おい・・・・・・」  僕はすぐにフォレッタを引き止めた。でも僕の体は何か別の物にコントロールされてい るように、歩く他に行動がとれなかった。 「なぁに?」  彼女は一体何が起こったんだろうという表情で不思議そうに僕の顔を見ている。僕は彼 女の表情の中に雀の涙ほどの悲哀の感情も無い事を見取ると、彼女の情のなさに少なから ずショックを覚えた。同時にその表情の示す彼女の感情に対する憤りも一緒に表出した。 「フォレッタ、あのネコの死体を見て、何も思わないのかよ。」  フォレッタはそれを聞いて少し考えるふりをして答えた。 「べつにほおっておいても誰かに迷惑かけるわけじゃないからいいじゃない。」  彼女の一言に僕は唖然としてしまった。僕の言いたいことはそういうことではないんだ。 あの哀れなネコをあの場で葬る事だって僕達は出来たはずなのに。フォレッタはそんな僕 の気持ちにはお構いなしに相変わらず腕にべったりとくっついている。  ネコが見えなくなってから僕もやっと諦める事ができた。  しばらく歩いていると、同じような道が続いていた。いや、これはただ同じような道だ けであって、全く同じ道ではない。僕はそう思いたかった。でも結果的にはまた同じ場所 に来てしまったのだ。一本道をずっと歩いて来たはずなのに、そこには黒い毛皮が落ちて いた。さっきと違うのは、その微動だにしない不吉な毛皮の正体が分かっているというこ と、そしてその数が増えているということだ。ずっと向こうまで残骸が方々に散らばっている。  おびただしい量の動物の血がアスファルトに染み込まずに流れ出ていた。その生臭い臭 いが僕の鼻を刺した。でもフォレッタはそんなものが初めから存在しないように表情をか えず、平然と前に進んでいる。  血のたまりに入ると靴底から、ぬるぬるとした感触が僕の体中にまとわりついた。それ は多くの動物の死によって作り上げられた特別な空間だった。ところどころに打ち捨てら れた動物の屍骸は首だけがもぎ取られていて、その生首はじっと僕達の方を睨んでいた。 その視線は、どこも見ているはずは無いのだが、重苦しい威圧感が僕の心臓辺りをしめつけた。 そして僕はあまりの異様さにまた僕はフォレッタを引き止めた。 「おいフォレッタ、一体これはなんなんだ?」  フォレッタはまた辺りを見て、やっとその光景に気が付いたようだった。そして足元を 見て自分が血だまりの中に足を突っ込んでいるのを見た。でも彼女はなんでもないように、 「さぁ、こういう所に来たって言う事はさ、ここがあなたの来たいところじゃないの?」  ここはもちろん僕の好きなところなんかじゃない。ここはただ単に僕がネコを葬ってあ げようとしていた所だ。 「違う!僕はこんなところへ来たいんじゃない!」 そういうとフォレッタ僕の目をまじまじと見つめ、 「じゃあここの他に何処へ行くって言うのよ。」と言った。 「・・・わからない。」  それは僕に聞かれても分かるはずは無い。僕には好きなところが見つからないのだ。 「さぁ、あなたにしてあげられることがあるわ。」  フォレッタは一度目を瞑り、静かに答えた。 「なんだよ。」 「この子達の魂を静めてあげることよっ。」  そういうが早いか彼女は、僕を血だまりの中に押し倒した。押し倒された衝撃で血 しぶきが舞い、体中にそのぬるぬるとした血液が体中に付着した。背中から、どろどろと したぬるい血が染み渡ってくるのが感じられる。 「なにをするんだ!」  突然の彼女の行動に気が動転した。僕は直ちに起き上がろうとしたが、それより早く彼 女がうまなりになって僕の動きを封じていた。すぐに、「はなっせよぉ!」と威嚇するよう に言ったが、それに動じず動物の血の付着した、狂気に満ちたフォレッタの顔が近づいて きた。両腕は不思議なくらい僕を硬く押さえつけていて、身動きすら取れない。 「鎮魂歌を歌いましょう。」  と彼女は耳もとでささやき、次の瞬間には彼女は動物の血のついた唇を僕の唇の上に乗 せた。僕は不意に目を瞑った。それから唇に何かの感触と音を感じ取った。 おぼろげに聞こえてくる鎮魂歌は、彼女が弾いているものだった。  意識がじょじょに薄れていく。その接吻の中で彼女の後ろの空に見えたはずの巨大なネ ガの目が、暗闇中を凝視するかのようにぎょろりと不気味にうごめいた。  音は、もう間もなく聞こえなくなった。 * * *  目が覚めたようだ。目を瞑ったまま僕はソファーに寝そべっていた。置きあがろうとし たが、体が重くて動かなかった。目を開けるとそこにはギターケースの中に入っていたは ずのフォレッタがうまなりに乗っかっていた。 「わぁ!」  僕は驚いて声を上げた。フォレッタと確認した瞬間、体中に嫌な汗が沸いた。彼女が夢 の中のフォレッタと交錯して見えたのだ。しかし、僕の回りには血の一滴も見当たらなか ったのを見て、それが夢だとわかった。 「どうしたの?」  彼女はいつもの表情で僕の顔を見ていた。彼女は夢の中のフォレッタではなかった。彼 女はなぜ僕の上に乗っかっているのだろう。 「いや、なんでもない、、、それよりそこから降りて。」  彼女が少し残念そうにすとんと座布団の上に座ると、僕はその隣に座った。彼女は夢の 中のように手を回してきて寄り添った。 「ねぇ」 「なに」僕は面倒くさそうに言った。 「どんな夢みてたの?うなされてたケド」  僕はすこしうんざりして応えた。 「うん、きっとそれは・・・キミが乗ってたからだと思う。」 「あら、どうしてなのかしら?」 「誰だって上に物が乗ってたらうなされるよ。」  彼女が乗ってたせいで、悪い夢を見たのは大体検討がつくけれど「夢の中にキミが出て 来た」なんて事はとてもいえそうになかった。それは説明しようにもとても込み入った事 だし、彼女にうまく伝わらないだろうからだ。これを説明した所で彼女の機嫌を損ねてし まう可能性もある。 「そうかも、でも私は弾いて欲しかったの。いつまで経っても目を覚まさないから上に乗 ったのよ。そしたら起きると思って。」  彼女は真面目にそう言った。一体どう言う理論が働いたら上に乗るという考えに辿り着 くのだろうか。ふつうにゆすって声をかけたりして起こすのでも、座布団でひっぱたいて 起こすのでもいいじゃないか。僕はそのおかげでずいぶん苦しめられたのだ。 「わかった、わかったよ。」  僕はさっきと同じ感じでそう応えた。 「じゃあ、私を弾いて・・・」  彼女は僕を抱きしめた。彼女の確かな温もりが僕の体に伝わるのを感じた。それから彼 女は夢で見たように曲を奏で始めた。それはどこかで聞いた事のある曲だった。でもそれ が何処で聞いた曲だったかは思い出せなかった。本当に身近にあったような気がする旋律 は、その記憶の先端をたどっていくと、途中から消えて無くなってしまうのだった。  僕はこの数日の間にギターの技術が向上したようだ。先輩の技術にだんだん近づいてき た気がする。この前まで出来なかったいくつかの複雑なコードも、アルペジオも感覚で弾 けるようになった。これは本当に凄い事だと思う。僕の作曲の範囲がどんどん広くなって いくのを嬉しく感じた。  でも僕には新しい曲を作るような気力が無くなってきていた。体がどんどん衰弱してき ている。バイトの疲れが出てきてるのだろうか。いずれにせよ何かに自分の気力を吸い取 られているような気がする。何をしようという気力も起こらなくなってきていた。 「ねぇ」と曲を弾き終わってから優しくフォレッタが言った。 「なぁに。」 「ホントの事言うけど・・・」  フォレッタは僕の方を向いてあらたまって言った。 「ん?なんだよ、ホントの事って。」  彼女は一呼吸置くと、大事な花瓶をテーブルの上に置くように言った。 「わたしね以前、前田くんと付き合ってたことがあるのよ。」  僕はそれを聞いて驚いた。フォレッタが先輩と付き合っていたとは思わなかった。彼か らはそんな事一言も聞かされていない。 「先輩と!?」 「ええ、と言ってもたった数ヶ月だけどね。わたし・・・が振ったの。」  僕は前田先輩が振られる理由を探って見た。彼の欠点は調子に乗ると言う事だ。でもそ れは色々とオープンな正確なので、自然とそうなってしまうだけなのだ。その欠点をカ バーするほど彼の心は誰にでも開け放たれている。 「なんで・・・?」僕はフォレッタにそう尋ねた。 「なんでだろ・・・上手く行ってたんだけどネ。でもすっごくムカついたのは確かよ。」  僕は思い出して少し感情的になっているフォレッタを見て、彼女に前田先輩が何をした のかを知りたかった。でも結局聞く事はなかった。それは彼女の心の箪笥の中にしまって おいた方がよさそうに見えたからだ。 「だ〜から最後ネ、別れるときに彼から大切なモノを盗んじゃったv」 「ええ!?」  悪戯っぽく無邪気に言うのを見て僕は、今までより彼女に惹かれているのを感じたが、 その反面、彼からモノを盗むと言う行動を考えて今までより複雑な心境になった。彼は僕 の先輩なのだ。その先輩の元カノが僕の今カノで、彼女は先輩の「大切なモノ」を隠し持っ ているという状況。事態は少しづつ深刻になっていくのが感じられた。  僕は深呼吸をして、そのまま深いため息をついた。 「で、その隠した物はなんなんだ。」 「ふふっvそれはまだいえない。でも言えることが一つだけあるわ。」 「なに」 「あなたは前田くんよりいい男だって事v」  彼女はまた無邪気にそう答えた。 * * *  それから二日間、同じような線をなぞるように過ぎていった。その間、僕は相変わらず コンビニへバイトに行ったし、前田先輩も全然音沙汰なかった。そのおかげで店長は終始 苛立っていて、普段の仕事にストレスを感じた。変わっていくのは、フォレッタを弾いて 僕のギターの技術が上がっている事と、バイトで体力を初めとしたさまざまな種類の力が 抜けて行く事だった。前まで平気だった仕事が苦に感じるようになった。  バイト中に一つの知らせが来たのは、その何でもない二日間の翌日の夕方だった。僕が いつものように不機嫌な店長に任されてレジをやっていると、しばらくして店長が血相を 変えて僕の所へ早足でやってきた。 「おい、ちょっと控え室に来い。」 「え?あ、はい」  ちょうどそのとき、若いサラリーマンが僕のレジの前に来たので対応しようとした。 「いらっしゃいませ」 「いい!緊急だ!」  店長は客の応対をしている僕の腕をつかみ、控え室まで強引に引っ張って行った。僕は 足をもつれさせながら慌てて、すみませんとだけお客さんに向かって言い、次の瞬間控え 室に連れ込まれた。レジの前に取り残された若いサラリーマンは僕の方を何が起こったの かとじっと眺めていた。 「そこに座れ!」  僕は店長と対面するように座った。蛍光灯の冷たく光る狭い控え室は僕を嫌な気持ちに させた。 「なんですか突然。」  彼は僕の方をじっと睨んだまましばらく口を開かなかったが、やがて口を開いた。 「心して聞け・・・」  彼の、柄にもなく興奮している顔を見ていると、それはよっぽどの事なのが空気を伝っ て感じる事ができた。彼はちょっとやそっとの事でこんな顔にはならないのだ。僕はま た何か悪い事でもしたのだろうか、それも飛びっきりの悪い事を・・・。そう思って少々の 覚悟を用意していたのだが、それは僕の想像していたより遥かに良くない知らせだった。 「前田が・・・自宅で死んだそうだ・・・。」 「ぇえ・・・!?」  僕はそれを聞いてただ驚く事しかできなかった。何日か前まで彼は僕と一緒にストリー トミュージシャンとして活躍していたのだ。そんな彼が普通に考えて死ぬはずがないだろ う。ウソだ、そんなのあるはずがない!そう思った。でも彼の、事実を見てきたような興 奮した目を見ると、それがでたらめではないことはすぐにわかった。 「今、連絡が入ったので総合病院に行って来たところだ。情けねえ、自殺だとよ。」  興奮していてもいつもの店長節は健在だった。こういう時ぐらい神妙にしろよ。  総合病院といえば、僕のバイトしているコンビニのすぐ目の前だ。僕はすぐにでも先輩 に会いたかった。会いに行こうとすれば会えるのだ。 「僕もすぐ行きます!どこですか!?」 「お前は今やっているシフトを終わらせろ。オレはこれから行く所があるから早めに連絡 したまでだ。サボんなよ。」  そういうと店長はやっつけ仕事のようにさっさと控え室から出て行った。相変わらず感 じの悪いやつだ。  バイトが終るまで一時間弱だったけれど、僕にとってその時間はほぼ永遠に感じられた。 客の応対はまともにしてはいるものの、もう頭は真っ白になっていた。前田先輩が死んだ なんて・・・その言葉がずっと頭の中でループしていた。  バイトが終ると、僕はコンビニの制服を脱ぎ、控え室の自分のロッカーに向かいおざな りに放り入れた。隣のロッカーの前田と書かれているマグネットがやけに鮮明に写った。  コンビニを出ると冷たい雨が振っていた。夕闇の濡れたアスファルトに映えるネオンラ イトが焼きつく。  傘もささずコンビニ前の横断歩道を、信号が青になる少し前に全速力でかけ抜けた。  総合病院まではそんなに長い距離はなかった。入り口まで来ると、体に付いた雫を、手 で軽く振るい落とし、ナースステーションまで走って行った。すぐにナースを見つけ面会 を申し入れた。自分の声は何かの障害が発生して、ひきつっているように聞こえた。 「面会、面会したいんですが。」 「はい」 ナースステーションの看護婦はゆっくりと応えた。 「どの階ですか?」  僕はどの階に前田先輩の死体があるのか分からなかった。もう死んでしまったけれど、 早く会いたい。今会うことが無ければ、もう二度と彼の顔を拝む事はできなさそうだった からだ。 「霊安室はどこですか?」  僕は、さも落ち着き払ったように言った。その言葉はうまく言えた。  でもそれが彼女に不思議な違和感を与えたようで、何があったのかと戸惑っていたが、 すぐに持ち直し、案内を始めた。 「地下一階です。霊安室へは担当の者が案内します。」  人の少なくなった控え室で少しの間待ちぼうけを食らったが、間もなく担当の男性がや ってきた。その男性は別に特にこれと言った感情は出していなかったが、どことなく神妙 な顔をしていたように感じられた。 「こちらでございます。」  エレベーターに乗り、男性と地下一階へ降りる。薄暗い消え掛けた蛍光灯に蝿が一匹舞 っているのを地下一階につくまでじっと見ていた。そんなに長い時間は経っていない。  エレベーターを降りてから前田先輩の眠っている霊安室までは、長い廊下が続いていた。 青っぽく薄暗い蛍光灯の回廊、ボクと男性の足音が大袈裟な音で響いた。  「本日は・・・ご冥福を・・・お祈りいたします。」  霊安室の前につくと、男性はそういいながらうやうやしくお辞儀をした。  僕も軽くお辞儀をして、霊安室の個室に入って行った。そして僕が入るのを見届けると、 彼もまた扉をしめて中に入った。  男性が扉を閉めてしまうと、僕と男性の立てた足音のざわめきの波のようなものが聞こ えなくなった。  部屋の中を見渡す。部屋は黒い布で覆われていて、二つの小さなろうそくが音も無く、 煌々と輝いていた。  静かで穏やかなその光の中で前田先輩は、ただ置かれていた。  その情景は、僕の心の中を不思議なくらい静かにさせた。僕の知っている前田先輩が、 目の前で死んでいるというのにだ。悲しみというよりは、もっと混沌とした感情が僕を支 配していた。  気が付くと、幾らか特殊な匂いが部屋に漂っていた。お香のせいなのか、死臭が出始め ているせいなのか、甘酸っぱいような香りが辺りに漂っていた。あまり良い匂いではない。  「親族の方ですか?」 と、その男性がおもむろに尋ねた。 「いえ」  僕は前田先輩を見ながら言葉に詰まった。そしてまた僕はもう一言加えた。 「僕の先輩です」  僕がそう言い切ると男性は、ゆっくりと、ろうそくの照らし出す光の中で言った。 「それは御気の毒に・・・」  僕はそれが本当に悲しい事だったのか、よく分からなかった。僕は彼の死を見て、殆ど 何の感情も抱かなかったのだ。いや、本当は幾らかあったのかもしれない。しかし、それ らの感情は、人の死を目前にした時の感情としては、あまりにも冷静なものだった。 ――前田先輩は、もう生きてはいない――  閉館時間になると、僕は自然と追い出されるような形で病院の外へ出てきた。半分放心 状態の僕は仕方なく、両ポケットに手を突っ込んで、アスファルトに照り返すネオンをお ぼろげに見ながら夜の煌びやかな南新宿へ向かった。通りの車が、雨特有の物寂しい騒音 を立てながら新宿の街の光に消えて行った。  僕の体は今やずぶぬれだった。でももう、ここまで濡れてしまえば、逆に傘を差す必要 がない。僕の体を雨が濡らしたければ濡らせばいい。今の僕にとって、体が濡れてしまう 事はほとんどどうでもよかったのだ。  そんな気分のままマンションに着くと、僕は目の前のガラスのコップを持った。いつも 僕が自分の家を出るときそうしているように、一杯の水を飲んだ。  部屋は換気をしていない事もあって、淀んだ空気がたちこめている。 ガラスのコップに勢いよく水を注ぐと、零れるのも気にせずに、ゴクゴクと飲み干した。  飲み終わるとおざなりにコップを流し台に置いた。コップは流し台を排水溝の所まで滑 って倒れた。  倒れる一瞬の騒音が部屋に響いた。僕はそれを聴きながら、ソファーに倒れこむように 腰掛け、目を瞑った。  フォレッタの居ない静かな僕だけのプライベート空間は、今日一日いろいろあった事を よいものも、わるいものも全て洗い流してくれる。心の落ち着き、またはその流れ。しか しどういうわけだかその中間でさえない、僕の思考という次元を越えた前田先輩の死が、 そこにぽっかりと洗い流されずとどまっていた。心にそういった中洲のようなものが出来 て、失われていたさまざまな感情が堆積していった。そしてそれはだんだんと、僕の心の 流れを圧迫していった。 「どうしたの?そんな疲れた顔して」  そう耳元で、静かにささやく声がした。いつの間にかフォレッタがやってきたのだ。僕 は突然出てきたフォレッタに、驚くこともなくソファーに寝そべっていた。朝からずっと そのままギターケースの中に入っていた彼女は、今ギターケースを抜け出し、何時の間に か僕の目の前に居た。 「うん・・・」  僕は目を瞑りながら静かに応えた。 「前田先輩が・・・死んだ・・・。」  少しの沈黙が流れる。外は雨が降っているようだ。雨音が僅かに聞こえる。そんなとり とめのない雨音が聞こえてしまうほどの間が、静かな時を刻んだ。 「へぇ・・・」  彼女はそう言った。 「前田クンが死んだんだ・・・」  彼女はその事に対し取りみださず、自分の持っている感情が読み取られまいとしてそう 言ったのだろうか。しかし、彼女は全くの平静を保っていて、そのような激情は何処にも 見当たらなかった。むしろそんな事なんてどうでもいいわ、というような意味合いが含ま れていた。 「死因は・・・なんなの?」  興味なさげにフォレッタは僕に尋ねた。 「睡眠薬多量摂取・・・だって。」 「ふぅん・・・」 彼女は、特に感情を持たず、興味なさげに反応しただけだった。僕は彼女の言葉が表して いるその感情に、僕は少なからず違和感を覚えた。  彼女のとの会話は、周りが静かなので不自然なくらい鮮明に聞こえた。でもそれは違和 感の直接の原因ではなかった。彼女は、もっと大事な何かを隠しているはずだと思った。 「前田クンも悩んでたんだね。」  彼女はどう言うわけかほっとした表情を浮かべていた。なにか脱力したようにも見える リアクションだった。 「死ぬ事ねえのに・・・なんでだよ・・・」  僕は妙に悲しくなってきて、ソファーから両足を黒淵のテーブルに置き天を仰いだ。 前田先輩は夢を持っていた。いつかギターでデビューするのが夢だと、 僕に以前打ち明けてくれた。そんな夢を持っている彼が、睡眠薬なんか飲んで死ぬわけがない。 僕はそう思っていた。彼に夢があれば、またその夢が叶う可能性が少しでもあるなら、 そんなもの買わないだろう。でも何かの衝動がそれを買わせたのだ。  あの夜、先輩はとても思い詰めていた。僕は何故それを慰める ことができなかったんだろう?僕は先輩を救えたはずなのに。最後のチャンスだったのに。 でもそれは思って見ても仕方ない事だった。現に先輩は死んでしまっているのだ。  先輩の夢はもう永遠に叶わない・・・そんなとりとめのない悲しさ、空しさが僕を支配し ていた。 「なぁ、フォレッタ・・・」  僕は天井に目をやったままフォレッタに言った。 「なぁに?」  フォレッタは何の気になしに応えた。 「お前さ、前田先輩の何を盗んだんだ?」  僕は不意にそう言った。もっと別の事を聞くべきだったのかもしれない。でも、そんな 事を言う必要性が今あったのかどうかは別として、僕は気になってフォレッタに聞いた。 すると、 「ウフフ、教えなーいv」 と、幾分悪いノリでフォレッタは応えた。 「いいじゃん、そんな事どうだってぇー」  彼女はまたうんざりしてそう言った。 でも、僕はそれをとても聞きたかったのだ。 「隠してんの?」  僕は彼女の方に目を向けた。 「はぁ?」  彼女のアクセントは人を小ばかにしたように聞こえた。 「なんなの?マジんなっちゃって。」  フォレッタは急に心を乱したように見えた。何か気に障るような事でも言ったのだろうか? 僕は前田先輩から何を盗んだのか聞きたいだけなのに。 「いいから教えろよ!」 「今言うべき事なの?っていうか私が今言った所でどうするつもりなのよ?」  フォレッタは僕の言っている事がわからないと言ったように、手のひらを宙に広げた。 そしてその態度に、いい加減怒った僕はフォレッタに対して大声で怒鳴った。 「何隠したかきいてんだよフォレッタ!!いい加減答えたらどうなんだ!!」  少しの間があいた。 「ふぅ、」  彼女は、消失感と苛立ちの混じったため息をついた。そして目を瞑り、しかたないわね、 という風に言った。言おうとしまい事をとうとう言ってしまうように。 「私の盗んだのは・・・彼の夢よ・・・」 「・・・は?」  オレは何がなんだかワケが分からなかった。夢は、盗めるものではない。完全になくな るものでもない。初めはそれに対し戸惑ったが、フォレッタという存在ならそれが可能な のかもしれないと考えた。でもそれはそれとして、そんな事をしたら彼がどうなるか、僕 には痛いくらい分かっていた。彼の原動力は、もはや失われてしまったのだ。彼女が続け る。 「だってぇすごくウザかったんだもん。ワタシが居るのにさー!なんか女つくってん のー!マヂムカついたし!」 「・・・」 「それにさー!ワタシはモノだから相手にならないんだってー!ワケ分かんないんだけ どー!チョームカついた。だから前田クンの夢、根こそぎ盗んで行っちゃったの。彼のオ チ振りがチョーウケたし!!マヂもうやってらんない感じ?つーか死んだしっ!!」  そこまで吐き捨て叫び、僕を睨んだ。彼女はまるで居場所のバレたゴキブリのように、 態度を豹変させ、口調が変わった。 「つーかもういいじゃん!あんなやつどーだってさー!」  彼女は苛立って座っているソファーを両手で叩いた。 「・・・」  フォレッタがそう言ってしまった後、しばらく僕は黙った。余りの事に僕の思考は停止 してしまったのだ。でもそれは一時的なものに過ぎなかった。間もなく、滝のような怒り と絶望感が押し寄せ、僕はフォレッタに言った。 「・・・そんな事で、先輩の夢を奪ったのか・・・?」 「はぁ?」 「・・・そんな事で、先輩の命を奪ったのか・・・?」 「なにいっちゃってんの?」 「・・・そんな事で、おまえは人を殺したのか!!!」  僕は怒りに心を奪われ、フォレッタの首をつかまえて、無理矢理ソファーに押し倒した。 「きゃっ・・・えぐっ」  フォレッタは衝撃に顔をゆがめた。 「私を怒らせるからこうなるのよ!!」 フォレッタはそう吐き捨てて僕を睨んだ。 「ふざけんなっ!!」  僕は彼女に全体重をかけ、首をソファーの肘掛けの所に強く押しひしいだ。こんなギ ターぶっ壊してやる。  フォレッタは、やられまいと僕の首を必死につかみにかかった、そして僕の首を強く締 め付けた。半分意識が遠退いたが、彼女に僕の首を締めきるだけの余裕はなかった。  まもなく彼女は白目になり、僕の首をつかむ力が弱まった。更に肘掛に押しているうち に、何か妙な音が聞こえるようになった。  メキッメキメキメキッ!!・・・彼女の首が折れている音だ。  彼女はその瞬間ものすごい力で体中でもがいて、僕は振り飛ばされそうになった。まる で最後の生命を失うまいとしているみたいに。しかしそれはとうとう叶わなかった。 ・・・バキッ!!  ギターのネックの折れる音が部屋中にこだました。フォレッタの首は、ゴロンと床に落 ち、脳を失った体だけがぐったりとソファーに横たわった。  しばらく、部屋には不気味な沈黙が流れた。その静けさの中でフォレッタの幻影が除々 に薄れていき、最後には消え、折れたギターと歪んだ弦がソファーの上に散らばった。 ただのギターに戻ったのだ。  ・・・僕は今、何をしてしまったのだろう。そう思った瞬間、僕の体の血と言う血が全て 凍りついたような気がした。しかし今から動揺しても、もう遅かった。部屋のスポットラ イトの沈黙の中で、今や弾くことの出来なくなった折れたギターを拾い上げた。先ほどま で、先輩を殺したフォレッタはこの部屋に存在した。もっと聞くべき事だってあった。し かし僕は殆ど反射的にフォレッタを破壊し、少なくとも生命のあったそれは単なるがらく たになってしまった。  僕は複雑な気持ちで、折れたそれを真っ黒な棺の中に入れ、もう二度と開けることのな いだろう最後のカギをかけた。  僕はそこで、自分にも最後のカギをかけてしまったような気がした。もう二度と元には 戻らないという事実を確認するかのように、僕は深呼吸をした。それから少し眠ろうとし て電気を消し、またソファーの上に暗闇の中寝そべった。僕はとても疲れていたのだ。も う息が出来なくなってしまうくらいに。  深夜の作りだす深淵の沈黙の中で、結果的に僕はただ一人取り残されることになった。 無限に等しい沈黙が、幾重にも重なっていった。 * * *  やがて夜が明けた。一睡もしていないはずなのに、眠気はすでに何処かへ消失していた。 僕の体は朝が来たのを知って、突然蘇ったかのように元気を取り戻した。しかし、心の中 にとどまっているまだまだ多くの疲れは、取り除かれることはなかった。  自分の体は軽くなったように感じられた。何かしらのおもりが外れたような気がした。 でもそのおもりがいざ無くなってしまうと、僕はその孤独な浮遊感に図らずも苛まれる事 になった。ここにはもう、フォレッタや前田先輩なんて居ないのだ。それが少なくとも僕 にとっての明確な現実だった。  窓の外は立ち直れなくなるくらい綺麗に晴れていた。アスファルトは昨日の雨で湿って はいたものの、空は晴れ渡り、風もそこそこ吹いていて蒸す暑さの陽気。窓から青い空を 久しぶりに眺めて、僕は自分でも気づかないくらい自然に携帯電話を手にし、どこかに電 話を掛けた。 プルルル・・・どこだろう? 「はい、南新宿支店」  出たのは店長だった。 「あ、僕です。諸事情により3日程お休みします・・・よろしいでしょうか・・・」  店長はしばらく考えていたようだったが間もなく、鼻で笑い、 「女々しいな、わかぞう」・・・とだけ言って、電話を切った。  僕は僕で、その言葉に腹は立てたものの、それをうまく聞き取れなかった事にして携帯 電話をしまい、青い空を見続けた。とても深い青だった。  間もなく僕は外に出かけた。折れたギターの入っている棺も途中まで一緒に。カラスを ゴミ捨て場から追い払っておざなりに粗大ゴミ置き場に置いた。すぐに戻ってきたカラス が居たのでしゃくにさわり、もう一度追い払った。  僕が自分の部屋に戻るとき、ポストの中に手紙が入っているのが目に付いた。あて先不 明と貼られていたが、相手先の所に僕の家の住所が書いてあったので、結局は僕の所に届 いたのだ。独特な文体で書かれたその手紙は、前田先輩が送ったもののようだった。  −−−  元気、ですか。多分これが読まれる頃、には俺居ないよな。一体誰に読まれるんだろう。 ていうよりか誰、に送ろうかな。変な事を言うかもんナイ、けれど俺にはギターの女の子 が居ました。でも今はその子にフられたし俺のゆめをもってった。この前彼女に街であっ たんだけど今その子、は新しい彼がいるんだって。でもそれがなんでよりによってあいつ なんだよ。なんかとてもありえません。俺のゆめ、はもうあいつに残さず分け与えたあと でした。俺まじでおどろいているのを、みて彼女はぶきみに笑ってた。ゆめを無くしたの は悲しい、つらい。もうずっとずっとツラかった。いつかすくわれると思ってがん張って みたけど、もう心の中にひいてる俺が宿ってナイんだよね。もうあきらめるよ。俺ずっと ゆめがねえのやだし。そんなの死ぬよりつらいし。じゃあな けい具  −−− 手紙にはそう書き綴られていたが、僕には書き殴られたように見えた。書くときには誰 に書こうか迷って、最後は僕向けに送ったのだろう。僕は手紙を静かにポケットにしまい、 それから空を見上げた。空は晴れているのに、頬には無言の雨がつたった。 * * *  前田先輩の手紙が着てから何日も過ぎ去った。僕の前田先輩への悲しいという想いは、 いつしか諦めへと変わって行った、もう彼は居ないんだ。そして彼女も。だからあの手紙 は、僕に届いた時にはすでに必要のないものだったのだ。  結局の所、僕は約束した3日をとっくに過ぎたけれどバイトには行かなかった。残雪ジ ジイからも連絡はなかった。恐らく見離されたのだろう。僕はその間、何日も家でじっと していたり家の周りをうろうろしていた。でもそのうちに、その退屈さに飽き飽きしてし まい、新しいギターを買おうと思って街に出た。それほど気取ってはない、安めのギター がいい。その辺の何処にでも売っているようなエレアコにしよう。  昼過ぎに、久しぶりに定期を使って新宿までいった。平日の新宿は店は空いているのに 人はまばらだった。主婦と何処かへいくサラリーマン、幾らかの浮浪者。空気は排気ガス とマンホールからわき出るヘドロの臭いで汚れてしまっている。ビルだけが豊かな養分だ けを吸い、成長しているようだ。  そんな新宿のデパートの一角にギター売り場がある。フォレッタはイタリアから輸入で 取り寄せたものだったが、今度は何処にでもあるような店で何処にでもあるようなギター を買うのだ。  フォレッタが居なくなってから、体の調子がずいぶんと良くなった。それはある種の呪 縛から解き放たれたように思えた。でも僕は本当に呪われていたのかもしれないな。新宿 のデパートにあるギターショップへ行く途中でそんな事を考えていた。 「いらっしゃいませぇー」  バイトの店員がこちらに気づき、やる気なく挨拶した。 「すいません」 「はい」と店員はすぐに返事を返した。幾分早すぎるくらいに。 「エレアコで値段手頃なヤツさがしてるんスけど、ありますかね?」 「手頃なのですか?ハイ、こちらにどうぞ。」  店員がそういうと早足でエレアコのある場所へ案内しはじめたので、僕は少し遅れそう になった。けれど、なんとか追いついた。 「えーっと、それですとこちらになりますねーぇ。」  店員が出してきたのは初心者用のギターセットだった。 「一応お値段が手頃と言う事なんで、これ・・・っすね。これ以上安いのはうちの店には中古 ぐらいしかないっすねぇ。」店員はそう言いながら鼻を掻いた。  僕はその新品の初心者セットで良いと思った。エレアコにしては2万円も行かないので、 初心者じゃないけれどそれを買うことにしたのだ。それに、安いけれどギターを弾くとい う点では、十分な機能が備わっていたからだ。 「これでお願いします。」  店員はそれを聞くと、ただ無言でやっつけ仕事のようにレジの方に箱を持って行った。 それが相手に対してどのような印象を持たせるか知る由も無く・・・僕は少し不快に思った。 「お会計は12557円です。」  僕はポケットのお金を殆ど出して、その場で支払った。カードはあるんだけれど使う気 がしない。 「ありがとうございましたー。」  会計が終ると僕は、不快な新宿の不快なギター売り場から足早に駅に向かった。 * * *  僕は新しいギターを買って家に戻ってきた。一呼吸置くとすぐにギターのセットアップ を始めた。急いでやったつもりだったけれど、説明書を読むのに時間がかかって、夜にな ってしまった。  セットアップが終ってしまうと、さてと・・・と思いながら僕は新宿へ向かった。昼に 不快に思った新宿だったけれど、夜の新宿は嫌いじゃない。この新しいギターを新宿で 弾きたくなったのもあるし、純粋に先輩と弾いた新宿の街で、死んだ先輩のためにエレアコを 弾きたいと思ったのもあるしね。  電車に乗って夕方の薄闇の新宿に着くと、僕はよく先輩と一緒に弾いた場所に向かった。 夕方の新宿は帰りの通勤客でごったがえしていた。でもそこには人の話し声はあまり聞こ えない。聞こえるのは車のエンジンの音と、大勢がそれぞれの目的地へ向かう足音だけだ った。  僕は駅構内へ流れ込む通勤客の流れに逆らって、僕の行くべき、よく先輩と弾いていた 場所へ辿り着いた。そこはちょっとした、小さな広場だった。  僕は適当な場所に座りこみ、ギターの用意をした。前田先輩がもう居ない世界で、初め てギターを弾くのだ。  人の流れる空気を読むと、僕はそのタイミングを見計らって、第一音を弾いた。僕が弾 こうとしていたのは先輩の持ち曲の「戯れ」だった。あまり考えていなかったけど、その曲 はごく自然に、何気ない会話の始まりのように出てきたのだ。  しばらくじっと弾いていると、何か妙な具合に人がちらほらと集まりはじめた。積もり 始める雪のように。女子高生はもちろん、通勤帰りのサラリーマンやヤクザや婆さんも集 まって来た。こんな世代も年齢も違う人達が満遍なく聞きに来たのは初めてだった。  僕は前田先輩のために弾いていたつもりだったけれど、フォレッタから意図せず貰った 前田先輩の技が、人々を魅了しないわけはなかった。僕がギターを弾くとそれに誰もが耳 を傾ける。でも僕はそれを後目に、黙々と演奏を続けた。  僕はそれからというもの、毎日同じ時間、同じ場所で演奏をするようになった。でもそ れは、たまに貰えるカンパや差し入れの為ではなく、前田先輩の為だった。或いは前田先 輩を失った自分の為にも、信念を持ちここで弾き続けているのだ。  ここへ毎日来るたびに、コンビニのバイトの為に買った定期券の期限が一日、また一日 と近づいてくる。そうだ、時間は無限じゃないのだ。いつかは終る。この世界も、僕自身 も。定期の期限はもう残り僅かだった。しかし、それに反比例するように、ストリートミ ュージシャンとしての評判はどんどん上がって行った。それは時に気まずかったし、恥ず かしくもあった。僕の演奏する「戯れ」は人々の心を惹きつけるようだった。この曲には これほどの力が込められていたのだ。前田先輩の最後の、生きようという力が。  演奏が終ると、ギャラリーは一斉に歓声をあげ拍手をした。雑誌の取材もやってきて、 CDは出さないんですか?なんて質問をされたりもした。でも僕はいつも、 「ううん、これはCDを出す為に弾いているんじゃないから」と返していた。 そんな冷たいような反応が、逆に僕の評判をますます上げる結果となった。 「すいません、しんやさんでいらっしゃいますでしょうか?」  演奏の休憩の合間に、一人のお洒落な格好をしたサラリーマンがこちらにやってきた。 「ええ、どなたでしょうか?」 「私ジャパンレコードの鈴木と言います。」鈴木さんは名刺を取り出してお辞儀をした。 名刺には名前と写真の他にケータイのカメラで読み取る四角いバーコードがついていた。 「つーか・・・、」  僕は名刺を簡単に見てギターケースにしまい、代わりにギターの手入れをしながら冷静 に切り出した。 「はい?」 「つーかジャパンレコードが僕に何の用。」  僕の対応に彼は少し困ったようだったが、その事情を簡単に説明してくれた。 「ええ、実はですね、うちの代表があなたのファンでしてね、是非あなた様をお呼びした いと承ってきたというわけです。」 「ふぅん。」  僕はそう言いながら自分の家に帰るために、ギターをしまった。そういえばノドも渇い たしお腹も空いてきたところだ。 「お時間少々頂いてもよろしいでしょうか?」  そう思っている僕をよそに彼はそう言った。僕はこんな男の話を聞かずに、そのまま帰 ってしまってもよかった。そうする事も出来た。しかし心の中ではどうしようかと迷って いた。付いて行くだけ付いて行こうかなとも思った。どうせ今の僕にはここで『戯れ』を 弾くくらいしか出来ないんだから。でも、いずれにしても今日はもう終りにしたい。 「わかりました。でも・・・」 「はい?」 「それはまた別の日にして頂けませんか?僕これから帰るので。」  彼はそれを聞いてどうしようかと少し慌てていたが、すぐに考えがまとまったようで胸 ポケットから薄くて小さいメモ帳をさっと取り出すと、ボールペンと一緒に僕に手渡した。 「それでは御連絡先でも・・・お願いできませんかねぇ?」  ボールペンまで手渡してからそういうので、僕は鈴木さんに仕方なく自分の携帯電話の メールアドレスを書いた。 「お呼びでしたらこちらに御連絡ください。」  僕はそう言ってボールペンとメールアドレスを書いた紙を鈴木さんに渡した。 「わかりました、それではまたお伺い致します。」 「それでは。」と僕は簡単に別れを告げて、まだ様子を見ている少なくなった聴衆をかき分 け、駅に歩いていった。  電車の中で、僕は定期券を見た。定期券には大きく、今日の日付が書かれている。今日 でこの定期券は期限切れになってしまう。もし鈴木さんから連絡があったら、僕は新宿駅 までの切符を買わなければいけない。でもそれは気分次第だよな・・・他に行くところない し、別に呼ばれたっていいんだけど。新宿に行くだけの蓄えは今の所持っているし。でも このままじゃまずいよなぁ。・・・僕はこれからどうなってしまうのだろう。新しいアルバ イトを探さなければいけない。時給が安くても、生活ができるところがいい。  帰り道、すっかり夜になった新宿御苑前は車とビルと街灯の光がギラギラとしていた。 赤と白の光の川は何の感情も無しに交差点で緑と赤の光に制御され、操られていた。  目の前の横断歩道の信号が緑になった。僕はそのまま立ち止まってしばらくしてから渡 りだした。僕の渡り切った後に信号は赤になった。  マンションの、カラスの居たゴミ捨て場を見た。もう何日も経っているけれど、いつも 必ずギターのあった場所に自然と目が行ってしまう。もうカラスもフォレッタもゴミ捨て 場には居ないのだ。代わりに空き缶が山ほどバケツに入っていた。ポストもついでに見て 見たが、ピザの広告しかなかった。  家までの階段を静かに上がる。古い蛍光灯が硬いコンクリートをより硬質にさせていて 寒々とする。  自分の家に着くと、僕は目の前のガラスのコップを持ち、一杯の水を飲んだ。相変わら ず部屋の空気が淀んでいる。薄暗い部屋の中をギターを担いでソファーに座った。テーブ ルにギターを置いて、しばらく眺めていたけれど、ふと弾きたくなった。  それは僕の曲の「告白」だった。時々新宿の広場で弾くこともあるんだけれど、最近家 で弾くことがすっかり無くなってしまった。自分の家で自分の為に弾くのは久しぶりだっ た。でも、僕がしばらく「告白」を弾いていると、僕の曲自身の中に何か違和感のような ものを覚えた。それは、弾いているうちにだんだんと強くなってきた。その違和感は悪い 胸騒ぎと共に不安に変わっていった。 「・・・なんだこれ・・・」  僕は「告白」をもう一度初めのフレーズから弾いた。その流れの中にふと、戯れのコー ドと合う所があったので、そこをなぞり「戯れ」のフレーズに合わせて弾いて見る事にし た。今の技術ならばそれができるのだ。  僕は地面に埋まっている宝物を掘り当てるように慎重にその曲を合わせてみた。 すると、僕の曲風と異なる「戯れ」の曲は、「告白」の良い部分を失わせる事なく、互いに補 い合っている事が分かったのだ。こんな事、今まで考えた事なかった。・・・前田先輩・・・  先輩は何を考えていたのだろう、今の僕のような技術がなければ、「戯れ」と「告白」の 曲に相関性があると気が付かないし、僕はフォレッタに会うまでそれほど技術のあるミ ュージシャンじゃなかったのだ。そう考えたとたん、前田先輩の考えていた全ての事が分 かった。彼の激しい葛藤や辛い想いがありありと目の前に浮かんだ。  フォレッタに夢を奪われた彼は、最後にフォレッタの居た僕にミュージシャンになる夢 を託したんだ。それが分かっていたからこそ手紙ではなく、「戯れ」を本当の意味での遺書 にしたのだ。  その結論に達したとたん、僕は感情を抑えることができず、いよいよ大声で泣いた。先 輩は最後に自分の全てを僕に託してくれたのだ。そのおかげで僕はミュージシャンとして は何不自由ない高度な技術が備わっている。ああ、僕は何て事をしてしまったのだろう。 前田先輩の人生を僕は跡形も無くなるくらい壊してしまったのだ。 * * *  何時間も何時間も泣いた後に、僕は窓を開けて部屋に空気を取り入れた。涼しい、そし て穏やかな風が吹いてくる。窓に腰掛け、外を背にして夜の新宿御苑の景色を望んだ。  携帯電話を見ると、鈴木さんからメールが来ていた。明日九時に新宿駅で待って居ます と書いてあった。  僕は明日、新宿へ行こうと思う。でも、こうやって夢に近づく為には、僕は必要以上に 多くの物を犠牲にしてしまったような気がする。それは、どれもこれもかけがえのないも のだったはずだ。お金も時間も、そしてその間にあった全ての事。フォレッタと先輩。 「前田先輩、ほんとうにごめんな・・・」  僕は一人でそうつぶやいた。誰にも聞かれなくていい。その返事もまた、永遠に返って こないものだから。僕は前田先輩に謝ったのだ。とても謝り切れるものじゃないけれど。  そして僕はまた続けて、「ほんとうにごめん。」と言った。その言葉は、深夜の新宿御 苑の雑然とした闇に染み込んでいった。